2013年08月27日

「はだしのゲン」問題は表現規制や思想規制ではなく『ゾーンニング』の問題

事の発端は、8/16に共同通信が《はだしのゲン「閉架」に 松江市教委「表現に疑問」》と題して、松江市教育委員会が、漫画「はだしのゲン」を子供が自由に閲覧できない「閉架」の措置を取るよう市内の全市立小中学校に求めていたことを報じた事でした。


この記事に対し、NHK等その他のメディアも追従、識者等の意見を毎日新聞等が掲載して閲覧制限反対キャンペーン状態となり、閲覧を制限するのは表現の自由への侵害だといった論が巷に流れるようになってきました。
この動きに赤旗新聞やレイバーネットなど左翼系のメディアも呼応し、はだしのゲンの閲覧制限問題は、さながら思想弾圧であるかのような論調も目立ってきました。

また、日本漫画家協会はは27日までに、漫画「はだしのゲン」の閲覧制限について「表現規制につながりかねず、憂慮すべきこと」などとする意見書を発表しました。

このように、はだしのゲン問題を猫も杓子も「表現規制」と称していますが、これは大きな間違いで、この問題を思想的な活動に利用しようとしている団体等もある事から、特に識者や漫画家協会が問題の本質を理解していない点をとても憂慮しています。

この問題は「表現の自由」ではなく、本質的には「ゾーンニング」の問題なのです。

この問題を理解するの必要な情報は次の通りです。

1)「はだしのゲン」は1〜4巻と、5〜10巻は事実上別物である。
はだしのゲンは4巻まで週刊少年ジャンプで連載されていました。この部分が通称第1部と呼ばれている部分です。この段階で一端完結しています。
その後、大江健三郎等の後押しで続編が左派系オピニオン雑誌“市民”で開始され、共産党系雑誌『文化評論』を経て日教組の機関紙『教育評論』で連載を継続します。5巻以降(第2部)は原爆の話ではなく戦後の話と戦中の日本軍について書かれています。特に6〜10巻ではレイプシーンや首切りシーンといった性的だったり、残虐だったりするシーンが多く出てきます。

2)松山市の教育委員会が閉架にするように要請したのは「学校の図書室」です。
一般の図書館では閲覧可能で、小学校や中学校で閲覧させる事が問題になった訳です。

3)閲覧制限が掛かったのは6〜10巻のみです。
前述の通り、閲覧制限の掛かった第2部は、レイプシーンや残虐シーンが多く書かれています。
第1部は閲覧制限対象外ですので、そもそも原爆の悲惨さを理解するために必要な部分は問題無く閲覧できます。


今回の問題となった共同通信の記事の時点で、閉架にして閲覧をある程度制限した理由について、同記事では『市教委によると、首をはねたり、女性を乱暴したりする場面があることから、昨年12月に学校側に口頭で要請。これを受け、各学校は閲覧に教員の許可が必要として、貸し出しは禁止する措置を取った。』としています。市教委の古川康徳副教育長の話として『作品自体は高い価値があると思う。ただ発達段階の子供にとって、一部の表現が適切かどうかは疑問が残る部分がある』と掲載しています。

最初の記事をよく読めば「6〜10巻を閲覧制限にするのは、エログロシーンが多く載った漫画を“学校で読めるようにする事は”子供の教育に良くない」点が事の本質だと言う事がすぐに分かります。
今風に言えば「6〜10巻は18禁なので、簡単に閲覧できるようにはしない」・・・単純にそれだけ。

これの何処が表現の自由の問題なのか、理解に苦しみます。
1〜4巻の第1部は閲覧可能で、エログロシーンが多い第2部の、それも6巻以降がR18で閉架・・・読むなではなく、申請すれば読める状態。
「読ませるな」なら表現規制ですが「18禁の内容だから、子供が簡単に手の届くところに置くな」というのは、どう考えても『ゾーンニング』です。

これは表現の自由の問題とは全く異なります。
もし、はだしのゲンの問題が「表現の自由のために閲覧可能」になるなら、芸術性やメッセージ性が高ければ“小学校や中学校の図書館にエロ本を置いてもいい”という話になってしまいます。

表現の自由は最大限に尊重されるべきものです。
でも、どんな表現でも無条件に晒していいわけじゃない。
その表現を不快に思う人や、教育上好ましくないと考えられる表現もあり、表現の自由と個々の幸福追求のバランスを取るためには、それを不快に思う人や子供に見せないようにする棲み分けが必要になります。いわゆるゾーンニングです。

ゾーンニングは表現の自由と個々の幸福追求のバランスを保つための苦肉の策ではありますが、表現の自由を守る為の重要な手段でもあります。
それが、本質を見誤り、ゾーンニングの問題を表現規制問題と取り違えて意見を発する事は、逆に表現の自由を守る為の手段の重要性を損なう危険を秘めています。

はだしのゲン問題は表現規制問題ではなく「残虐シーンやレイプシーンが掲載された漫画を」「小中学生に」「学校の図書室で」「大人の目がなく自由に閲覧させるべきか否か」の問題なのです。

ゾーンニングの問題に、思想等関係ない問題を混ぜてはいけません。
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2013年07月09日

日刊サイゾーさんに事実無根の記事を書かれましたので、抗議いたしました

先日から、表現規制に関してアレコレと活動していますが、日刊サイゾーさんに事実無根の記事を書かれましたので、抗議いたしました。

抗議メールの内容は↓こちら。
(なお、拡散させて営業に協力する気はさらさら無いので、記事名、URLは掲載しません)

日刊サイゾー担当者様

当方、日本創作文化消費者連盟(仮)準備会で活動している青木ともうします。
下記タイトルの記事について抗議させていただきます。

(該当記事名とURL)

まずはじめに、日本創作文化消費者連盟(仮)はまだ発足もしておらず、現在どのような運営形態にするかといった問題を解決する為に、準備会を作る事を決めたばかりの状態で、団体という体裁すらなっていない状態です。
そこで、今回「会の中核として参加してくれる人」を対象に東京ミーティングを開きました。
当然、参加者はこれからどうやって団体を作っていこうかという事を話し合う為に参加しており、当日はニコ生での中継も中止する“完全クローズド”の内々の会合でした。
この記事は完全クローズドの会合に参加趣旨を偽って潜入し書かれており、極めて不誠実な取材姿勢と言わざるを得ません。
当日参加者に対して情報公開範囲を設定しており、反対意見はなかった事から参加者全員がこれを承諾していますので、この点からもルール違反と言わざるを得ません。

また、この記事は事実誤認が含まれております。
そもそも、ニコ生や当日何度も説明していますが、この団体は私の団体ではなく、誰か代わりにやってくださる人がいるのなら、諸手を挙げて御願いしたい、出来れば私はこんな面倒な事をしたくないと“何度も”話しています。
それを、ことさら私が利益団体を立ち上げたかの如く書かれている事は、事実誤認と言わざるを得ません。

よって、大変申し訳ありませんが、該当記事の削除をおねがします。


知らない人のために、今回の抗議に至る概要を時系列で纏めると、次のようになります。


児ポ法改正反対にはロビー活動を行う団体が必要だと提言
その際、自分はお手伝いはするが主体で動くのは無理と再三話す

「せめて集まる器だけでも作って」と生放送コメント等で要望がある

ニコ動のコミュニティ作る

団体の運営形態等を話し合う場が必要なので東京ミーティングを行う

ミーティングでは「団体発足へ向けたタイムスケジュール」と「準備会を作る事」が決る

ミーティング参加者のライター氏に「怪しげな青木なる人物が人を集めて
表現規制反対活動を食い物にしようとしている」と記事にされる


今回の記事でこちらが問題としているのは「公開範囲を決めたオフレコ情報を、潜入取材で書いた」「事実誤認がある」の2点。

前者は、抗議及び削除依頼のメールに書いたとおりです。
完全クローズドの会合で、外部向けに情報公開範囲を“反対者無しの全会一致”で決定したにもかかわらず、それを記事にした事。
参加者からの聞き書きならいざ知らず、ミーティングへの参加趣旨を偽った潜入取材ですので、マスメディア及びジャーナリズムのルールから著しく逸脱していると言わざるを得ません。(で、書いてある内容が事実と異なるから更に・・・)

後者に関しては、まず記事の前提となっている「怪しげな青木なる人物が人を集めて…」の部分から事実誤認です。
現在の活動が始まる前、表現規制反対活動は啓蒙の段階を超えて規制推進派と同じ土俵で戦わなくてはいけないじきに来ているのではないかと提唱し始めた頃から既に「私はお手伝いならするが、私が主体で活動するのは無理」と再三話し、みんなが纏まって活動するのならそのお手伝いをするのは吝かではないと言っていました。
ただ、集う器がない段階で誰かにやれと言っても無理な話だという事で、“誰も旗振り役を買って出てくれる人が居ない為仕方なく”旗振り役を引き受けている状態です。
団体設立のためのコミュニティで行っている過去の放送及び東京ミーティングの場でもこの事は再三申し上げましたし、その事は参加者全員知っています。
ミーティングでは団体設立のための集まり(準備会)を作る事を決めただけで、代表者を決めた訳でもありませんので、その点を踏まえるとこの記事は「事実誤認に基づく“青木個人への誹謗”」としか言いようがありません。私の容姿へのネガティブな言及(白いジャケットの襟と脇の下に大きな汗染みをつくりながら…)に至っては、個人への誹謗でしょう。第一、ふくよかな私に冷房が掛かっていない部屋で汗をかくなという方が無理難題です。

さらに当日話した内容となっている部分も、会話に出てきた名称と事実でない部分をつなぎ合わせたもので、虚偽と言わざるを得ません。
有名僧侶云々は、前日にその方の出ている某トークイベントに行ってきたという話だけですし、漫画家さんに関しても「趣旨に賛同していただければ協力を御願い出来るだろう」という話しをしただけです。また「コミケのサークル云々」のくだりに至っては団体周知のチラシを配る為のアイデアの一つとして提示したものを、それが確定事項のように話した事になっており、大変遺憾に思います。

個人的な云々については、ここまで書いた前提があると最早単に言いがかりに過ぎないのでここで反論する事はしませんが、事実誤認と事実無根の内容を元に書かれている以上、記事自体は公共性のカケラもない個人への嫌がらせとなっています。
名誉毀損での対応も考えては居ますが、それ以前に“表現規制に反対する活動が読者というフィールドで発生しつつあるのにその芽を潰してしまう記事”が、私への事実確認の取材すらない状態で表現規制反対の記事を過去に何度も載せている日刊サイゾーさんに掲載された事が残念でなりません。
この記事が、せめて団体発足後で仮に私が代表者に就任していたなら、まだ公共性を理由に記事を掲載したと言われても理解は出来るんですが、団体作る方向で有志が準備会作ろうぜと言っているレベルですので。

以上、日刊サイゾーさんの記事に対して、ここに事実関係を記載させていただきました。
なお、この活動について記事にするならきちんと取材に来ていただければ、いくらでもご協力させていただきます。
表現の自由の上に成り立つメディアは皆同志だと思っておりますので。
ラベル:表現規制
posted by FumiHawk at 08:26| Comment(2) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月19日

月刊セブンティーンの「いじめ対策特集」で伝えたかったこと -「いじめ」「体罰」問題の根底にある5つの誤認識-

昨年12/28発売の『月刊セブンティーン2月号』に“実践的いじめ対策”という3ページの特集が組まれています。
セブンティーンでは、いじめに関する特集を過去にも定期的に掲載していましたが、教育論的なものや有名人のいじめ体験談といった定番的な内容でした・・・が、今回は大津での中学生自殺等いじめが死に至る事件が多発している事から、より読者の参考になる=実際にいじめを受けている読者がその状況から避難し、生きていけるかという、ある意味サバイバルな内容になっています。
実は、この特集の監修を依頼され、インタビュー記事も掲載されています。

依頼の元になったのは、大津のいじめ事件を受けてTwitterで昨年夏にいじめに関する連投のツイートでした。
この連投ツイートを纏めて下さった方がいらっしゃいました。→(青木文鷹さんによる『実践的イジメ対策』http://togetter.com/li/352634

そして、このまとめを集英社のセブンティーン編集部の方がお読みになり、特集の監修及びインタビューの依頼をメールで頂く事になりました。
インタビューは3時間弱に及びましたが、特集に必要なポイントを上図に纏めて頂けた事、そして具体的な対策を非常に分かり易い形でビジュアル化して頂いた事をライター及び編集の方々に感謝いたします。

記事はとても読みやすく、実践的で精神論など一切入っていないものですので、これまでのいじめ記事とは一線を画す内容だと思います。

ただ、紙面の都合上どうしても掲載できなかった、伝えきれなかった部分も多く存在しますし、今年になってからは大阪の体育教師が行っていた体罰によって自殺者が出るなど、新たに伝えたい事も増えました。
ですので、紙面の関係もあってセブンティーンの記事で伝えきれなかった事、そして「いじめ」「体罰」問題の根底にある誤認識について掲載します。



《誤認識その1:いじめは根絶出来る》

いじめ問題で最も根本的で、もっとも大きな誤解は『いじめは根絶出来る』・・・コレです。
「いじめの無い社会を作ろう」、これは目標としては正しいですが、このような目標を立てているという時点でいじめが“普遍的に”存在しているという事を暗に肯定しています。
仮にいじめが無い状態=普遍的であれば、個別のイレギュラーな状況=いじめに粛々と対処していけばよいのです。
群れで生活する動物(魚やら犬やら)の世界でもいじめはあります。
大人の社会にもいじめは頻繁に見られます。
「パワハラ」やら「アカハラ」等いろいろな名前を付けられる事もありますが、アレも大人の社会のいじめです。
大の大人の社会ですら普遍的にいじめが見られるのだから、まだ成長途上にある子供達の社会である学校でいじめがあるのは当たり前です。
識者と言われる人達が言うようにいじめは根絶出来るというなら、マズ大人の社会からいじめを根絶して見せろ…と。

そして、いじめは根絶出来る、言い替えればいじめが無い状態が基準であるという根本認識が、いじめの早期発見、早期対応を困難にします。
いじめが無い事が基準だと「いじめ発見=マイナス評価」になります。
当然、教師がいじめを発見したりした場合にネガティブな対応を誘発するでしょうし、自分の評定が下がるのを気にして穏便に(この場合の多くはいじめられっ子に我慢しろという方向で)事を押さえ込む傾向が出るのはある意味当然であると言えます。
もし、いじめはどうやっても発生してしまうものだという認識が基準だったら「いじめの早期発見=プラス評価」になります。どんなに防火に力を入れても火事は起るものだという前提であれば、火事を発見して初期消火が成功したらプラス評価されるのと同じです。

この誤認識は、いじめ問題から子供を守る上で最も大きなポイントだと思います。
その意味ではこれまで「いじめを無くせ」とを語ってきた“全ての教育者や評論家”は間接的に問題悪化に加担していたとも言えます。

いじめ問題のスタートは『いじめは根絶出来ない』と認識するところからです。



《誤認識その2:体罰は教育である》

これも大きな誤認識です。
日本で体罰が多く見られるようになったのは比較的最近の事で、軍隊での教育が影響しています。
世界で最も教育水準が高かった江戸時代の日本において、寺子屋、郷学、藩校ではほとんど体罰がありませんでした。
軍隊においても日本で体罰が多く行われ始めたのは日露戦争後で、これは日露戦争時に兵士の逃亡が相次いだため、軍は国民に服従の観念の徹底をはかる必要に迫られたことを基点にしています。

明治においても教育令(明治12年)第46条で既に「凡学校ニ於テハ、生徒ニ体罰(殴チ或ハ縛スルノ類)ヲ加フヘカラス」と体罰禁止が法律として明文化されていました。
これは体罰禁止において最先端であったフランスより8年も早く、日本文化において教育手法としての体罰は古くから社会的に受け入れられないものだったといえます。
体罰が軍隊からもたらされた傾向があるとはいえ、当の軍隊の首脳陣であった山本五十六ですら『やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。』の名言を残し、教育とは体罰ではない事を承知していました。

そもそも、日本では学校教育法第11条で体罰禁止が明文化されています。
つまり体罰は実行した時点で法律違反であり、教育ではないのです。



《誤認識その3:いじめは教育問題である》

既に前述したように、いじめは根絶出来ませんし、体罰は教育ではありません。

法治国家である日本では、社会秩序をまもるために刑法がまず重要視されます。
この刑法に書かれている犯罪を犯した場合、速やかに処罰されねばなりません。
それが日本社会を維持する為の必須条件だからです。

さて、いじめで自殺した人達の大半に共通する状況というのがあります。
それは「金や物を脅し取られた」「殴られた」「罵声や非難を毎日浴びせられた」「土下座等やりたくない事をやらされた」といったものです。

無視された等の社会的に見ても分かり易い状況に至る前に死を選ぶいじめられっ子の人もいますが、多くはその段階を耐えているうちにいじめっ子らの行為がエスカレートし、上記のような行為を受けています。

これらの行為は『犯罪』です。

金や物を脅し取られた=強盗罪や恐喝罪が成立するでしょうし、殴られた=暴行罪が、罵声や非難を毎日浴びせられた=脅迫罪や名誉毀損罪が、土下座等やりたくない事をやらされた=強要罪が極めて高い確率で成立するでしょう。

「あの子が嫌いだからちょっと意地悪する」とかいうレベルが「いじめ」であって、刑法に抵触する行為は「犯罪」です。
にもかかわらず、教育関係者はこれらの行為を「いじめ」と呼び、教育の荒廃等を叫ぶばかりで、いじめと称した犯罪行為に直面している子供達を守る事が出来ていません。
さらに事態を悪化させているのは“言葉の言い替え”です。
犯罪行為をいじめと呼ぶだけでなく、窃盗を「万引き」とよび、売春を「援助交際」とよび、権力を背景にした暴行を「体罰」と言い替える。
言葉の言い替えは、問題の本質を見えにくくし、その結果として、いま打つべき手がなにかを見失ってしまいます。

いますぐ対処すべきなのは『学校内で行われている犯罪行為=いじめ』なのです。

メディアが取り上げているいじめ事件も、実際にはいじめを超越した「犯罪事件」です。



《誤認識その4:学校、家族は子供の味方である》

色々相談を受けますが、正直この点が一番難しいポイントです。
いじめを受けている子供にとって、本当の意味で味方になってくれる大人が極めて少ないのです。
既に述べたとおりいじめは無くならないものですから、言い替えると解決方法がない命題です。
いじめが発生しているとマイナス評価になる現状で、しかも解決方法を持たない教師にとってみれば、一部の熱心な教師を除き「面倒な相談」になってしまいます。
教頭や校長にとっても、いじめがあるという事は自分たちの評価にとってマイナスですので、出来れば関わりたくないと考える場合が多いでしょう。
いじめの被害者は、学校にほとんど味方がいない状態で過ごしています。
自宅に帰っても、両親が味方になってくれない例もよく見られます。
これは、自分の子供がいじめに遭っていると信じられないというものだけでなく、いじめ加害者の両親の社会的地位や田舎などの地域性といった要素が絡んできます。

このような状況ですから本来はいじめ相談といった第三者の動きが重要になるのですが、これらの機関の相談員はスキル不足や子供達の実情を理解していない、精神論や教育論から離れられない、実践的な即時対処法を持ち合わせていないと言った場合が多々見受けられます。

いじめの被害者は『孤立している』ことを理解して下さい。
だからこそ、信頼できる大人が重要になります。




《誤認識その5:学校に警察が入るのは良くない》

心理学の世界には「スタンフォード監獄実験」とよばれる有名な実験があります。
1971年に2週間の予定で行われたこの実験は、開始からたった6日で中止になりました。
一般人被験者21人を看守役と受刑者役に分け、実際の刑務所に近い設備で生活させながらそれぞれの役割を演じさせる実験の結果、演技を超えてそれぞれの役通り振る舞うようになり、隔離されて役目を与えられた空間では異常な暴走が起るという結果を残しました。

学校という舞台は、教師と生徒という役割が明確にあり、教育の名の下に社会の目から隔離されています。
そこで行われる行為は、たとえ一般社会では許容されないレベルの暴力や酷い言葉であっても教育機関という錦の御旗を掲げ、聖域化する事で「社会の常識と隔絶した別世界」を作り上げています。

この聖域化自体がいじめを助長させ、犯罪にまで発展させるのです。

子供でも大人でも、犯罪行為を犯す事をためらうのは「刑事罰」があるからです。
盗んだら捕まる、金を脅し取ったら刑務所に入れられる、他人を傷つけたらしょっぴかれる・・・社会を機能させる為のルールが守られているのは、ルールを破った場合の罰則があるからです。罰則があってすら犯罪が無くならないのですから、ルールがなければどれほど酷い状態になるかは、内戦等で国家が機能していない国の状況をみれば一目瞭然です。

翻って学校では、教育の名の下に聖域化されているため、第三者の目が届かず無法状態になりつつあります。
モンスターペアレントといった問題も、学校が聖域である為犯罪行為があったとしても「学校に文句を言えば許される」という雰囲気が出来てしまっている側面が否めません。

もちろん安易になんでも警察に丸投げしてしまったら教育の敗北でしか有りませんが、いじめ問題を教育問題に戻したいなら、一般社会で適用されているルールをきちんと守らせるところから始めなければなりません。


学校側が最も簡単に、最も効果的に“いじめによる自殺を減らす”方法は
『いじめ加害者に、彼らがやっている行為が“犯罪”であり、止めなければ警察を介入させると宣言する事』です。

これだけでも、いじめがエスカレートすることをかなり押さえ込む事が可能です。



ここまで書いてきて、実際に言いたい事はもっと多岐にわたる事に気が付きました。
しかし、セブンティーンの記事で一番訴えたかった事は「いじめを受けている子供は被害者であり、いじめ被害者が死ぬ事だけはなんとしても避けなければならない」ということでした。
その意味では、件の記事は満足できるもので、このエントリーは記事を補完する為に必要な事はとりあえず書けたかと思います。
いじめ問題は今後も折に触れて書いていく事になると思いますが、今回はひとまずこの辺で。

最後に一言。
『いじめられてる子は死ぬ前にまず逃げよう。貴方が死んだら喜ぶのはいじめている彼らだよ。』
ラベル:いじめ
posted by FumiHawk at 03:19| Comment(5) | TrackBack(1) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする