昨年12/28発売の『
月刊セブンティーン2月号』に“実践的いじめ対策”という3ページの特集が組まれています。
セブンティーンでは、いじめに関する特集を過去にも定期的に掲載していましたが、教育論的なものや有名人のいじめ体験談といった定番的な内容でした・・・が、今回は大津での中学生自殺等いじめが死に至る事件が多発している事から、より読者の参考になる=実際にいじめを受けている読者がその状況から避難し、生きていけるかという、ある意味サバイバルな内容になっています。
実は、この特集の監修を依頼され、インタビュー記事も掲載されています。
依頼の元になったのは、大津のいじめ事件を受けてTwitterで昨年夏にいじめに関する連投のツイートでした。
この連投ツイートを纏めて下さった方がいらっしゃいました。→(青木文鷹さんによる『実践的イジメ対策』
http://togetter.com/li/352634)
そして、このまとめを集英社のセブンティーン編集部の方がお読みになり、特集の監修及びインタビューの依頼をメールで頂く事になりました。
インタビューは3時間弱に及びましたが、特集に必要なポイントを上図に纏めて頂けた事、そして具体的な対策を非常に分かり易い形でビジュアル化して頂いた事をライター及び編集の方々に感謝いたします。
記事はとても読みやすく、実践的で精神論など一切入っていないものですので、これまでのいじめ記事とは一線を画す内容だと思います。
ただ、紙面の都合上どうしても掲載できなかった、伝えきれなかった部分も多く存在しますし、今年になってからは大阪の体育教師が行っていた体罰によって自殺者が出るなど、新たに伝えたい事も増えました。
ですので、紙面の関係もあってセブンティーンの記事で伝えきれなかった事、そして「いじめ」「体罰」問題の根底にある誤認識について掲載します。
《誤認識その1:いじめは根絶出来る》
いじめ問題で最も根本的で、もっとも大きな誤解は『いじめは根絶出来る』・・・コレです。「いじめの無い社会を作ろう」、これは目標としては正しいですが、このような目標を立てているという時点でいじめが“普遍的に”存在しているという事を暗に肯定しています。
仮にいじめが無い状態=普遍的であれば、個別のイレギュラーな状況=いじめに粛々と対処していけばよいのです。
群れで生活する動物(魚やら犬やら)の世界でもいじめはあります。
大人の社会にもいじめは頻繁に見られます。
「パワハラ」やら「アカハラ」等いろいろな名前を付けられる事もありますが、アレも大人の社会のいじめです。
大の大人の社会ですら普遍的にいじめが見られるのだから、まだ成長途上にある子供達の社会である学校でいじめがあるのは当たり前です。識者と言われる人達が言うようにいじめは根絶出来るというなら、マズ大人の社会からいじめを根絶して見せろ…と。
そして、いじめは根絶出来る、言い替えればいじめが無い状態が基準であるという根本認識が、いじめの早期発見、早期対応を困難にします。
いじめが無い事が基準だと「いじめ発見=マイナス評価」になります。当然、教師がいじめを発見したりした場合にネガティブな対応を誘発するでしょうし、自分の評定が下がるのを気にして穏便に(この場合の多くはいじめられっ子に我慢しろという方向で)事を押さえ込む傾向が出るのはある意味当然であると言えます。
もし、いじめはどうやっても発生してしまうものだという認識が基準だったら「いじめの早期発見=プラス評価」になります。どんなに防火に力を入れても火事は起るものだという前提であれば、火事を発見して初期消火が成功したらプラス評価されるのと同じです。
この誤認識は、いじめ問題から子供を守る上で最も大きなポイントだと思います。
その意味ではこれまで「いじめを無くせ」とを語ってきた“全ての教育者や評論家”は間接的に問題悪化に加担していたとも言えます。
いじめ問題のスタートは『いじめは根絶出来ない』と認識するところからです。《誤認識その2:体罰は教育である》
これも大きな誤認識です。
日本で体罰が多く見られるようになったのは比較的最近の事で、軍隊での教育が影響しています。
世界で最も教育水準が高かった江戸時代の日本において、寺子屋、郷学、藩校ではほとんど体罰がありませんでした。軍隊においても日本で体罰が多く行われ始めたのは日露戦争後で、これは日露戦争時に兵士の逃亡が相次いだため、軍は国民に服従の観念の徹底をはかる必要に迫られたことを基点にしています。
明治においても教育令(明治12年)第46条で既に「凡学校ニ於テハ、生徒ニ体罰(殴チ或ハ縛スルノ類)ヲ加フヘカラス」と体罰禁止が法律として明文化されていました。
これは体罰禁止において最先端であったフランスより8年も早く、日本文化において教育手法としての体罰は古くから社会的に受け入れられないものだったといえます。
体罰が軍隊からもたらされた傾向があるとはいえ、当の軍隊の首脳陣であった山本五十六ですら『やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。』の名言を残し、教育とは体罰ではない事を承知していました。
そもそも、日本では学校教育法第11条で体罰禁止が明文化されています。つまり体罰は実行した時点で法律違反であり、教育ではないのです。《誤認識その3:いじめは教育問題である》
既に前述したように、
いじめは根絶出来ませんし、体罰は教育ではありません。法治国家である日本では、社会秩序をまもるために刑法がまず重要視されます。この刑法に書かれている犯罪を犯した場合、速やかに処罰されねばなりません。
それが日本社会を維持する為の必須条件だからです。
さて、いじめで自殺した人達の大半に共通する状況というのがあります。
それは「金や物を脅し取られた」「殴られた」「罵声や非難を毎日浴びせられた」「土下座等やりたくない事をやらされた」といったものです。無視された等の社会的に見ても分かり易い状況に至る前に死を選ぶいじめられっ子の人もいますが、多くはその段階を耐えているうちにいじめっ子らの行為がエスカレートし、上記のような行為を受けています。
これらの行為は『犯罪』です。金や物を脅し取られた=強盗罪や恐喝罪が成立するでしょうし、殴られた=暴行罪が、罵声や非難を毎日浴びせられた=脅迫罪や名誉毀損罪が、土下座等やりたくない事をやらされた=強要罪が極めて高い確率で成立するでしょう。
「あの子が嫌いだからちょっと意地悪する」とかいうレベルが「いじめ」であって、刑法に抵触する行為は「犯罪」です。
にもかかわらず、教育関係者はこれらの行為を「いじめ」と呼び、教育の荒廃等を叫ぶばかりで、いじめと称した犯罪行為に直面している子供達を守る事が出来ていません。
さらに事態を悪化させているのは“言葉の言い替え”です。犯罪行為をいじめと呼ぶだけでなく、窃盗を「万引き」とよび、売春を「援助交際」とよび、権力を背景にした暴行を「体罰」と言い替える。
言葉の言い替えは、問題の本質を見えにくくし、その結果として、いま打つべき手がなにかを見失ってしまいます。
いますぐ対処すべきなのは『学校内で行われている犯罪行為=いじめ』なのです。メディアが取り上げているいじめ事件も、実際にはいじめを超越した「犯罪事件」です。《誤認識その4:学校、家族は子供の味方である》
色々相談を受けますが、正直この点が一番難しいポイントです。
いじめを受けている子供にとって、本当の意味で味方になってくれる大人が極めて少ないのです。既に述べたとおりいじめは無くならないものですから、言い替えると解決方法がない命題です。
いじめが発生しているとマイナス評価になる現状で、しかも解決方法を持たない教師にとってみれば、一部の熱心な教師を除き「面倒な相談」になってしまいます。
教頭や校長にとっても、いじめがあるという事は自分たちの評価にとってマイナスですので、出来れば関わりたくないと考える場合が多いでしょう。
いじめの被害者は、学校にほとんど味方がいない状態で過ごしています。自宅に帰っても、両親が味方になってくれない例もよく見られます。これは、自分の子供がいじめに遭っていると信じられないというものだけでなく、いじめ加害者の両親の社会的地位や田舎などの地域性といった要素が絡んできます。
このような状況ですから本来はいじめ相談といった第三者の動きが重要になるのですが、これらの機関の相談員はスキル不足や子供達の実情を理解していない、精神論や教育論から離れられない、実践的な即時対処法を持ち合わせていないと言った場合が多々見受けられます。
いじめの被害者は『孤立している』ことを理解して下さい。
だからこそ、信頼できる大人が重要になります。《誤認識その5:学校に警察が入るのは良くない》
心理学の世界には「スタンフォード監獄実験」とよばれる有名な実験があります。
1971年に2週間の予定で行われたこの実験は、開始からたった6日で中止になりました。
一般人被験者21人を看守役と受刑者役に分け、実際の刑務所に近い設備で生活させながらそれぞれの役割を演じさせる実験の結果、演技を超えてそれぞれの役通り振る舞うようになり、隔離されて役目を与えられた空間では異常な暴走が起るという結果を残しました。
学校という舞台は、教師と生徒という役割が明確にあり、教育の名の下に社会の目から隔離されています。そこで行われる行為は、たとえ一般社会では許容されないレベルの暴力や酷い言葉であっても教育機関という錦の御旗を掲げ、聖域化する事で「社会の常識と隔絶した別世界」を作り上げています。
この聖域化自体がいじめを助長させ、犯罪にまで発展させるのです。子供でも大人でも、犯罪行為を犯す事をためらうのは「刑事罰」があるからです。盗んだら捕まる、金を脅し取ったら刑務所に入れられる、他人を傷つけたらしょっぴかれる・・・社会を機能させる為のルールが守られているのは、ルールを破った場合の罰則があるからです。罰則があってすら犯罪が無くならないのですから、ルールがなければどれほど酷い状態になるかは、内戦等で国家が機能していない国の状況をみれば一目瞭然です。
翻って学校では、教育の名の下に聖域化されているため、第三者の目が届かず無法状態になりつつあります。モンスターペアレントといった問題も、学校が聖域である為犯罪行為があったとしても「学校に文句を言えば許される」という雰囲気が出来てしまっている側面が否めません。
もちろん安易になんでも警察に丸投げしてしまったら教育の敗北でしか有りませんが、いじめ問題を教育問題に戻したいなら、一般社会で適用されているルールをきちんと守らせるところから始めなければなりません。
学校側が最も簡単に、最も効果的に“いじめによる自殺を減らす”方法は
『いじめ加害者に、彼らがやっている行為が“犯罪”であり、止めなければ警察を介入させると宣言する事』です。これだけでも、いじめがエスカレートすることをかなり押さえ込む事が可能です。
ここまで書いてきて、実際に言いたい事はもっと多岐にわたる事に気が付きました。
しかし、
セブンティーンの記事で一番訴えたかった事は「いじめを受けている子供は被害者であり、いじめ被害者が死ぬ事だけはなんとしても避けなければならない」ということでした。
その意味では、件の記事は満足できるもので、このエントリーは記事を補完する為に必要な事はとりあえず書けたかと思います。
いじめ問題は今後も折に触れて書いていく事になると思いますが、今回はひとまずこの辺で。
最後に一言。
『いじめられてる子は死ぬ前にまず逃げよう。貴方が死んだら喜ぶのはいじめている彼らだよ。』